中国のちまた見聞録

中国を素のまま、生のまま捉える様に心がけました


 「淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しく留まることなし」
  今から5、6年前中国を通算2年をかけて旅行した。中国語でいう「旅游」である。

 日本のように圧倒的に単一民族が支配的である国に対して、中国の広大で且つ多くの少数民族を内に包含し、多少の矛盾はありながらも、国としての体勢を2000年間の長きに亘って続けてきたということは、それだけでも畏敬に値する。

 今回の旅は現実の姿に直接触れることにより、中国の良さと遅れた点を垣間見ることができたと同時に、日本との関係において改めて日本を見直すきっかけになったと思う。

 このブログはその時の記録である。これ以上無理解による反目が広がらないことを祈る。

     目指すは「坊ちゃん」と「ドクトルマンボウ航海記」    (李 白扇)
 

 
 

買い物


ちょっとした外出に履いて歩くサンダルが欲しくて買い物に出た。一見、高級品を並べた店が軒(ちなみに中国には不思議に軒はない)を連ねる文昌路という地区である。f:id:China21:20080919144402j:image:leftしかしこれらの店の中には「擬似ブランド」で幅を利かしているものも結構多い。たとえばシャツに関してみると、ワニが右を向いているブランドではなく左を向いているXXXダイルというブランドであったりして、明らかにそれと分かる擬似ブランドである。
 誰が買うのかというような品ものが陳列してあるが、今や中国の「中流」階層は以前からは想像もつかないレベルに達しているのかもしれない。  しかしそういった超高級品は差し置いて普通の庶民のいくような店も結構大きな店構えをしているが、携帯電話とスポーツ衣料品の店ばっかり。
スポーツ衣料の店構えは決まって真中に靴の陳列棚を置き、靴も衣料も左右を男物と女ものにわけるようなアレンジをしている。その地区のかなりの店は若者をターゲットを当てているらしく、私が欲しがるようなおっさん物やオバサンものはあまり見かけなかった。なぜだろう? この地域の若者はそんなに金を持っているのだろうか?確かに買い物客は同年輩のらしいものはあまり見かけなかった。想像するに金は親が持っているのだろう。親は一人っ子政策のため、一人の子供を大切に育て上げるが、共稼ぎも多いため経済的ゆとりのある家庭が多く、かつ昨今の高度成長のおかげで金余り現象が生じ、そのお金が子供に流れ込んだ結果として、都市部ではそれをターゲットに大きな市場が生まれているということだろう。田舎では、地域格差のおかげで地域の資本が流出し、都市とは逆に貧困化が進んでいるのではないだろうか。これを確かめるのはそう遅いことではないだろう。
 経済評論は別として、実際には1000円、2000円のものを求めて、町を彷徨い歩くのは、他人から見れば、格好いいものではないかも知れない。まだ私を知る人間がいないから気楽に歩けるが、その内に「坊ちゃん」のように、「あの先生、あの店で50元のものを値切ってたなもし」とか、朝学校に行ったら、黒板に「道を背をかがめて歩くべからず」なんて言うのが、貼りに出されそうで、もっと颯爽としていなければならないと気を引き締めている。