義理の贈物かもしれない
日本の情報はインターネットを通して入ってくるので、さほど不自由はしないように見える。しかしこの情報にフィルターがかけられているとしたらどうだろう。おそらく不自由は感じないまま年を取っていくだろう。情報にはそのような恐ろしさがある。いや情報そのものではない。仕組みなのだ。「中国は自由でない。日本は自由だ。」本当にそうだろうか?中国では言論の自由は制限されていると日本人は考え、中国人もそう思っている部分はかなりあるだろう。では日本ではどうだろう。よくよく考えてみる必要があるだろう。資本主義の国にいて、果たして資本から自由でいられるメディアはあるのだろうか。
さて今日は教師デーということだ。学校が決めたのか国が決めたのかは知らないが、花束をもらい、感謝カードをもらった。このような制度は日本では、「何で教師が」とか言われそうでとても考えられない。またそのシステムの是非は別として、学生が自腹を切って花束を買ってきてくれるという気持ちがうれしい。これに答えるだけの授業をしなければならない。彼らの期待に応えているのだろうか。
授業はなんとかこなしているが、1日4時間授業はさすがに疲れる。4時限が終わるとぐったりである。疲れを見せまいと、胸を張って歩くようにはしているが、他人から見るとごまかしはきかないようで、会う人から「おつかれのようですね。」とか「疲れますか」ということを聞かれる。なんとかきしっとやりたいものだが、前かがみになって顎が出ているようである。女子学生にうざいとかじじ臭いと言われてしまったらおしまいで、何とかならないかと思う。
次の土曜、日、月は中秋の休暇だ。問題の南京まで行ってこようかと思っている。少し腰が引けてしまう感じである・・。 この日は辛亥革命のときに決起の文書を月餅に入れたことから、この餅を食べて祝うということだそうだ。
贈られたメッセージと花束と魔法瓶