中国のちまた見聞録

中国を素のまま、生のまま捉える様に心がけました


 「淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しく留まることなし」
  今から5、6年前中国を通算2年をかけて旅行した。中国語でいう「旅游」である。

 日本のように圧倒的に単一民族が支配的である国に対して、中国の広大で且つ多くの少数民族を内に包含し、多少の矛盾はありながらも、国としての体勢を2000年間の長きに亘って続けてきたということは、それだけでも畏敬に値する。

 今回の旅は現実の姿に直接触れることにより、中国の良さと遅れた点を垣間見ることができたと同時に、日本との関係において改めて日本を見直すきっかけになったと思う。

 このブログはその時の記録である。これ以上無理解による反目が広がらないことを祈る。

     目指すは「坊ちゃん」と「ドクトルマンボウ航海記」    (李 白扇)
 

 
 

漢俳


今日少し趣向を変えてみよう。
以下の句は言わずと知れた芭蕉の句である。

 秋深き 隣は何を する人ぞ

 この俳聖ともいわれる芭蕉の句に対し下手な漢訳を付けるとはと、お叱りを受けるかも知れないが 、そこは若輩に免じて許して戴くこととして、出来るだけ元の句に忠実に漢俳を付けてみた。
 
 秋天加深了
 寂寥感为周围漂
 邻人做什么   (李白扇)

 そのまんまであれ一応漢俳は漢俳であると思っている。

 異国の地のホテルは今真夜中の1時。日本であれば2時である。隣の部屋も表の喧騒も今は静まり返っている。このような中でウイスキーをちびりちびりと舐めながら、一人パソコンに向かっているとやはり一種の寂寥感に襲われる。
 町の街路樹の銀杏の木には銀杏 が鈴なりで、日本ならそれを求めて多くの人が落ち穂拾いならぬ銀杏拾いに金色の落ち葉に染まる歩道に集まってくるのであろうが、ここでは、銀杏の葉っぱはまだ青々としているが、銀杏だけは黄色に色づいている。そんな中、チェーンソーが唸りを上げて銀杏の枝を銀杏ごと切り落とし、トラックに無造作に放り込んでいく。何とも無粋で乱暴な銀杏拾いである。日本的な風情を求めること自体が無理なのであろうか。
 そして夜の帳が下りたホテルの表で先ほどまでパトカーのサイレンがけたたましくなっていたかと思うと人々の怒鳴り合う声が響きとても秋の風情とは程遠い喧騒に包まれていた。しかしそれも静まり、怒鳴っていた人々は逮捕されたのか今では静まり返っている。空には晴れていれば中秋の名月がかかっているはずである。100年前にかかっていたと同じ月は今はない。おそらく先ほどまで騒いでいた人々は明日はこの中秋の名月を鉄格子の間から垣間見て、「隣は何をする人ぞ」と思うではなかろうか。あるいはそのように考えるのは日本人だけであろうか。やはり感性の違いの大きさは感じざるを得ない。別に中国人の感性を疑っているわけでなく、李白ならどう感じるだろうと思うだけである。この場面では白居易が一番似合いそうだと思う。

 少しだけセンチメンタルになったところで、一句献上!

 遥かなる揚州の地も秋染まる
 远远从故乡 在杨州路上树木 秋色渗进里  (李白扇)

 汉俳には音声が重要と考えるので、拼音付記しておきました。ご賞味あれ。
  yuǎnyuǎncónggù xiāng
  zàiyangzhoulùshangshù
  qiūsè shènjìnlǐ
 最後の里は文法的にはおかしいのかもしれない。本来なら「了」を入れたかったが、音韻のおさまりが悪いので、「里」とした。これも私の語彙不足に尽きると考えている。