中国のちまた見聞録

中国を素のまま、生のまま捉える様に心がけました


 「淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しく留まることなし」
  今から5、6年前中国を通算2年をかけて旅行した。中国語でいう「旅游」である。

 日本のように圧倒的に単一民族が支配的である国に対して、中国の広大で且つ多くの少数民族を内に包含し、多少の矛盾はありながらも、国としての体勢を2000年間の長きに亘って続けてきたということは、それだけでも畏敬に値する。

 今回の旅は現実の姿に直接触れることにより、中国の良さと遅れた点を垣間見ることができたと同時に、日本との関係において改めて日本を見直すきっかけになったと思う。

 このブログはその時の記録である。これ以上無理解による反目が広がらないことを祈る。

     目指すは「坊ちゃん」と「ドクトルマンボウ航海記」    (李 白扇)
 

 
 

トイレの話

 少しばかり堅い話が続いたので、一息入れることにしよう。
 私は名所旧跡その他観光地などを訪ねた時は、必ずトイレに行くことにしている。目的は二つ。
一つは言わずと知れた生理的欲求を満足させるためである。絶えずいらないものは排出しておくのが、健康維持の大原則である。
 もう一つは、トイレを見れば、そこの物事に対する姿勢が非常に明確に知ることができると信じて疑わないからである。私はこの原則他のことにも通用すると思っている。
 たとえばある社会を見るとき、その社会の一番遅れた部分がどのような状態にあるのかをなるべく見るようにしている。それが社会全体の発展具合とリンクしているはずだからである。
 さて本来のトイレの話に戻る。これは大便用のトイレの話であるが、それも扉の付いているトイレのことである。
 洋式の便座のものは殆ど必ず扉を開けて、体を反転させ「扉の方を向いて」座ることになっている。そうしないと便座カバーが奥の方に向いて、これは甚だ取り扱いにくいことになる。
 ところが和式の方は大体、扉を開けるとそのまま向きを変えずに、しゃがみ込むものとばかり思っていた。ところが中国は違うのだ。扉を開けると体を180°回転させ、扉の方に向き直り、座り込むようになっている。なぜそうなのか分からない。扉があるところだから、そこそこの場所である。

 この写真も洋式のレストランのトイレである。
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 確かに「XX隠し」が手前になっている。これではどうしても体を回転せざるを得ない。
洋式トイレがそうなのだから、それをまねたのかも知れないが、どうしても機能的ではない様に思う。
 みんなが普通に用を足してくれたら問題はない。しかし、人によっては、小便器が一杯でやむなく、こちらで用を済ます御仁も居られるであろう。するとその人はわざわざ、体を回転させこちらを向いて用を足すだろうか。しかもその場合、もうひとつ困ったことがある。男性ならお分かりだろうが、扉を閉めないとあの部分がこちらを向いて、みんなに見られてしまうことになる。弓削の道鏡ほどの立派なものをお持ちの方は、「それみろ、俺のは大きいだろう」と自慢が出来るかも知れないが、そんなことをしても、「お前には自慢できるものはそれしかないのか」と言われるのがおちである。

 結果的には、私はこれは設計ミスではないかと思う。しかしこのミスが実に多いのだ。ほとんど全部ではないのかと思う。これには単なるミスではなく、何か民族的な理由があるはず。これも宿題である。
 ところで皆さん実際には、どうやって用を足すのだろう。しばし観察をした。するとすべての御仁は、そのまま体を回転せずに、用を足していた。「大」の方は扉が閉まるので、中でそのまま座りこんでいるのか、逆立ちをしているのか、見当もつかない。当然、「小」の話であるが・・。
 するともうひとつ困ったことになる。「XX隠し」に小便が跳ね返り、乱反射してそこらじゅうに飛び散ることになる。当然自分のズボンにもだ。ズボンも汚いが、「XX隠し」も汚い。そこで敵もさる者ひっかくもの。中には横に立って用を足していた御仁もいた。これも、射程範囲が著しく狭められ別の面で困ることになるのだが・・。