中国のちまた見聞録

中国を素のまま、生のまま捉える様に心がけました


 「淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しく留まることなし」
  今から5、6年前中国を通算2年をかけて旅行した。中国語でいう「旅游」である。

 日本のように圧倒的に単一民族が支配的である国に対して、中国の広大で且つ多くの少数民族を内に包含し、多少の矛盾はありながらも、国としての体勢を2000年間の長きに亘って続けてきたということは、それだけでも畏敬に値する。

 今回の旅は現実の姿に直接触れることにより、中国の良さと遅れた点を垣間見ることができたと同時に、日本との関係において改めて日本を見直すきっかけになったと思う。

 このブログはその時の記録である。これ以上無理解による反目が広がらないことを祈る。

     目指すは「坊ちゃん」と「ドクトルマンボウ航海記」    (李 白扇)
 

 
 

秋深し

この2、3日で急に寒くなった。やはり日本と比べると気温の変化は急激なのかもしれない。
あさ散歩していると、通りのあちこちで人だかりができているので、何だろうと覗いてみると、暖かい肉まんを蒸かしていたり、なにやら練ったものを揚げていたり、朝早いのに結構いろんな物が売られている。少し前にはあまり見かけなかったように思うが、少し寒くなると人だかりができるほど、よく売れるようだ。これも風物詩なのかもしれない。
さて話は変わるが、先日のトイレの向きに関して、中国人の先生から貴重なコメントを戴いた。

 いつも楽しく先生の中国体験談を見ていますが、トイレの向きについて私が知っているこよを言わせてください、何千年戦乱の中国ではどこへ行っても常に他人に警戒心を持って行動しなければ不安になるのだから、トイレの向きもその反映ではないかと思います。(後ろから襲われる恐れがあると__)。

 成程、トイレをしている間に後ろからバッサリでは、格好つけようがない。せめて死に際ぐらい格好よく死にたいと思うものだ。だから昔の武士などは、散り際を非常に重んじて、美学まで高めたと思う。しかし、本来死というものは、美学と両立するものであろうか。

 最後は神に祈り、静かに辞世の句を読むのであろう。
 では無神論者はどうするのか?
 「紙がなければウンは自らの手でつかめ」 紙違いで、お後がよろしいようで。