雑音が音声に変わるとき
最近、今までは雑音でしかなかった人々の話声が、音声として聞けるようになった。私の場合、約2カ月かかったことになる。
外国語を勉強する時言われたことがある。「10歳ぐらいまでなら3日あれば慣れる。20歳ぐらいなら3カ月あれば、堪能になれる。30歳ぐらいなら3年あれば慣れる。40歳を過ぎると何年やっても駄目だ。」(ダメというのは、レベルの問題であって、外国語はちょっとでもいいから勉強するに越したことはない。分かると分からないとでは天と地の開きがある。これは私の半世紀以上の苦い経験から言える確かなことだ)
この年齢と外国語の習得レベルの相関関係は確かに言えるのかも知れない。母語の母斑というのは、なかなか取れないものだ。
私の場合、2ヶ月までの間、ちょっとの話でも、すぐにメモ帳を手渡し、「書いてください」と頼んでいたが、最近ではそのメモ帳もあまり使わなくて良くなった。
このことは教室でも同じことが言えて、学生たちの普通に話ししていることも、耳に入ってくるようになってきた。また裏を返せば、学生たちにも同じことが言えて、以前は私の中国語を聞きとるのに大変なエネルギーを必要としていたものが、最近では少し楽に聞けるようになったのかも知れない。従って、最近では授業もこちらの狙い通りの進め方で楽に、こなせるようになった。
先日、行きつけのレストランに入った。ここは、スタイルは洋風であるが、完全な中華料理の店である。非常に客の応対もよく、きびきびしていて感じがいい。よその店では注文の際、何を注文していいか分からないときとか、注文しても相手が理解できなかったときなど、怒りの表情を見せて腹立たしげに注文を取るということがこの店にはない。しかし、その分高い。そこらへんの飯屋で10元までで食べれる物が、この店では最低でも20元はする。
そこで、たまたま高いものを注文をした時、注文を取りに来た女性が、「今日は少し高いものを注文するのね」とたぶん独り言のつもりで云ったのだろうが、こちらには聞こえてしまった。そんなことがあって、この店にもしばらく足が遠のいていた。
ところが昨日、出来ない生徒に補講をした後、あたりの飯屋は閉まっているし、あまり知らないところへ行って、何を注文するか迷うのも億劫だしと思って、その行きつけの店に行った。
何時ものごとく愛想のいい女店員が寄ってきて注文を取ろうとしたとき、ベテランらしい女性が押しのけるようにして、こちらに来ていろいろ注文を聞いてくれた。親切に高いものに誘導しようとするが、こちらはそのベテランのことを聞くようなふりでともかく注文をした。そのベテランは注文票を別の女店員に手渡しながら、「この人、何を見ても、何を聞いても分からないのよ」とそれこそ囁くように言って去って行った。彼女はこちらが何も理解していない積りで気を許したのだろうし、こちらは少し前なら完全に雑音の範囲だったものが聞こえてしまった。
聞こえなくてもいいものが、聞こえてしまうのはあまりいいものではない。人間聞こえてもそれが頭に残らないから生きていけるので、すべての音声が頭に残ってしまうと生きていけないだろう。
なんでもそうで聞く必要のないものは、耳に入って来ないのが一番いいのだ。たとえ入ってきても、一瞬で取捨選択できる。これが出来たのが、お釈迦さんや聖徳太子だったのだろう。 私もお釈迦さんになりたい!