中国のちまた見聞録

中国を素のまま、生のまま捉える様に心がけました


 「淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しく留まることなし」
  今から5、6年前中国を通算2年をかけて旅行した。中国語でいう「旅游」である。

 日本のように圧倒的に単一民族が支配的である国に対して、中国の広大で且つ多くの少数民族を内に包含し、多少の矛盾はありながらも、国としての体勢を2000年間の長きに亘って続けてきたということは、それだけでも畏敬に値する。

 今回の旅は現実の姿に直接触れることにより、中国の良さと遅れた点を垣間見ることができたと同時に、日本との関係において改めて日本を見直すきっかけになったと思う。

 このブログはその時の記録である。これ以上無理解による反目が広がらないことを祈る。

     目指すは「坊ちゃん」と「ドクトルマンボウ航海記」    (李 白扇)
 

 
 

この街に来た時にはぜひ訪れたい場所の一つだ。ここは元々天寧寺という清朝の時代に建立された禅寺であったものが、現在は重寧寺というお寺と一緒に「揚州仏教博物館」となっており、お寺の機能はない。僧侶も一人もいない。

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 ただ境内は昔をしのばせる壮大なものである。敷地面積は33600平方メートルで、その昔清の時代の乾隆帝天領地とでも言うのか、天賜寺ということである。又の名を小故宮とも呼ばれているようである。
 
 拝観料は一人40元とあるが、その下に5人以下なら20元とあり結局20元で入れた。



f:id:China21:20090102135428j:image:right 江蘇省の文化財と指定されているようであり、管理はすべて省で行われているようだ。
衛視もそれなりの巡回をしている。しかし、平日ということもあったが、客はほとんどいない中、客よりも衛視の数が多いのでは・・。

 衛視の点呼風景


 中国にはこのような場所はそれこそ無数にあるのだろうが、それなりの管理とそれなりの保全が行き届いている感じはする。
 中には中国の仏教の歴史が一覧できるようになっている。その始まりは前漢の時代に始まり、大明寺が建立された5世紀半ばから、唐代から清代までの歴史が詰まっている。中国の仏教の歴史は、自分の今までの認識を超えていて、日本の仏教はインドから学ぶより遙かに多くのものを中国から学んでいたのだということを再認識した。
 特に南都六宗、宋元の時代の禅宗のルーツがここには詰まっていた。
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 また、今まで仏典を求めて旅したのは玄奘だけだと思っていたのが、それよりもはるかに昔にやはり長安を出発し、西域を経てインドに至り、中国に帰っている僧がいたのには驚きだった。



 これらの僧の偉業と共に語られていたのは鑑真であった。
 鑑真もそうだが、玄奘や法顕などの僧の苦難に満ちた行動の原動力はいったい何だったのだろうと畏敬の念を持って考えこまざるには置かない何かがそこにはある。

 夕暮れの静寂の中で一人だけ、ベンチに座り、銀杏が落ちる音に静かに耳を傾けながら、彼らに思いを馳せながら、しばし考え込んだ。この気ぜわしい世の中で、少しだけ喧騒から離れて自分だけの時間を持てる空間をそこに見出したことはやはり喜びである。

「大伽藍 銀杏の音二つ三つ」
 
 在大伽蓝里       zài dàqiélánlǐ 
 银杏种子落的音    yínxìng zhǒngzi làdeyīn
 只一个两个       zhī yīgè liǎngge           (李 白扇)

f:id:China21:20090102142555j:image:rightしかし、そうした中にもアメリカでは、オバマ氏が黒人初の大統領に就任が確定したことが報じられており、歴史が一時も休むことなく、しかも確実に新しい時を刻もうとしていることを肌に感じざるを得なかった。

 「それでも歴史は動く」 


 ちょうどこの景色ではないのか。
 そうだ、自分はこの狭い回廊を通ってきたのだ。そして、今少しだけ解放された広い空間の中にいるという存在感なのか幸福感なのか。

 僧坊から回廊を望む。