上海は辛亥革命当時、孫中山が拠点とした街であり、歴史的に重要な位置を占めている。
孫中山の旧居を尋ねるべく、タクシーに乗った。時間的余裕があれば、地下鉄がいいのだろうが、不案内なうえ、時間がないときている。2時39分の列車を逃せば、すこしやっかいなことになる。
タクシーは鉄道駅から、約20分で25,6元はかかったと思う。思ったより町中にあり、少ししっとりした雰囲気の街のたたずまいであった。
その旧居跡は、その一角にあり、番地で言うと「香山路7号」というところにある。
入り口には彼の坐像があり、花壇に囲まれて座っている。その銅像のすぐ右にはきれいに手入れされた便所がある。流石国家的な庇護のもとに管理されているだけのことはあり、今まで入ったどのトイレよりも綺麗であった。
孫中山先生はここには1920年から移り住んだということである。部屋数は本当にいくらもない質素なもので、こんな所であの困難な状況の中で生活されていたのかと感心した。
当時の政治状況
1894年 日清戦争
列強日本、ロシア、ドイツ、イギリス、フランスなど中国に侵略
1911年 辛亥革命
1912年 清朝滅亡
1914年 第一次世界大戦
1915年 日本、中国に対し21カ条要求を突きつける
1917年 ロシア革命
1919年 5・4運動勃発
1921年 中国共産党の成立
1924年 第1次国共合作
1925年 孫文死去
1927年 日本、山東出兵
1928年 張作霖爆死
1932年 上海事変
そして日中戦争へとつながっていく。こうしてみると1840年代のアヘン戦争を皮切りに約一世紀もの間、中国が列強の侵略によって国土を踏みにじられ、どれだけの損害を被ったかがよく分かる。
彼は本当に質素な方で、相当のお客さんがあっても、食費は1日数十元以内に抑えられていたとのことである。1階の応接間は、当時のままの保管されているというが、小さな部屋で20畳に満たない程度であった。この部屋で、共産党の陳独秀と会談し、第一次国共合作を打ち立てられたとの事で、ここで「歴史は動いた」といえる。
各部屋には警備の人が立っていて、写真は残念ながら撮れなかった。
また、書斎は勿論のこと廊下にもぎっしりと詰められた書架があった。かれは無類の読書好きということで、「僕の一生の贅沢は革命を除いては、読書だ。一日でも本を読まないで、生活できない」といっている。
奥さんの宋慶齢とは仲が良かった様で、彼女は孫文亡き後も孫文の意志を継いで、革命の為にその生涯をささえている。この奥さんは3人姉妹で、一人は孫文、一人は蒋介石、一人(宋 靄齢)は中国国民党の幹部と結婚しており、すごい三人姉妹である。昔NHKで放映された「三人姉妹」という大河ドラマを彷彿とさせる。
住居とはいえ、ある意味では公的な場所であるのに対し、この家に隣接した小さな庭とテラスを備えた別棟がある。彼がここの椅子に座って、静かに庭を眺めながら、策を練っていたのかと思うとまた感慨ひとしおである。
やはり、このようにして跡付けをすればするほど、彼の人格がしのばれ、彼に一層の敬愛の情を感じるのである。上海では、何よりもここを訪ねられんことを希望する。
今回は時間の都合で、魯迅記念館しかいけなかったが、この記念館以外に「魯迅旧居跡」というのがある。孫中山と同様、旧居跡を訪ねるのも又感慨ひとしおである。
魯迅記念館は地下鉄3号線虹口サッカー場の近くにある魯迅公園の中にある。魯迅公園は市民の憩いの場所のようである。この時はたまたまコーラスのサークルが練習をしており、その歌声が流れていた。