中国のちまた見聞録

中国を素のまま、生のまま捉える様に心がけました


 「淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しく留まることなし」
  今から5、6年前中国を通算2年をかけて旅行した。中国語でいう「旅游」である。

 日本のように圧倒的に単一民族が支配的である国に対して、中国の広大で且つ多くの少数民族を内に包含し、多少の矛盾はありながらも、国としての体勢を2000年間の長きに亘って続けてきたということは、それだけでも畏敬に値する。

 今回の旅は現実の姿に直接触れることにより、中国の良さと遅れた点を垣間見ることができたと同時に、日本との関係において改めて日本を見直すきっかけになったと思う。

 このブログはその時の記録である。これ以上無理解による反目が広がらないことを祈る。

     目指すは「坊ちゃん」と「ドクトルマンボウ航海記」    (李 白扇)
 

 
 

孫文と孫中山の関係について

11月9日の日記の中の記述で孫文孫中山の関係について質問があったので、改めて解説しておこう。インターネットのウィキペディアからの引用を下記に掲載する。

孫文が日本亡命時代に住んでいた近くに、「中山」という邸宅があり、その字を気に入り、孫中山と号すようになった。「中山家」は由緒ある公家(華族)の家柄であり、明治天皇の母の生家にあたる。
号は中山 (Zhōngshān)、字は載之。中国では前者で、欧米では孫逸仙の広東語ローマ字表記であるSun Yat-senで知られる。
 

 尚孫文のこの旧宅跡の玄関口には、Sun Yat Sunの標識が大きく掲げられていたように思う。
 彼の評価はいろいろあるようだが、1911年辛亥革命の時に、彼がシンボル的存在で初代総統あったのは事実である。実質の研究は今後もっと進むであろう。