中国のちまた見聞録

中国を素のまま、生のまま捉える様に心がけました


 「淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しく留まることなし」
  今から5、6年前中国を通算2年をかけて旅行した。中国語でいう「旅游」である。

 日本のように圧倒的に単一民族が支配的である国に対して、中国の広大で且つ多くの少数民族を内に包含し、多少の矛盾はありながらも、国としての体勢を2000年間の長きに亘って続けてきたということは、それだけでも畏敬に値する。

 今回の旅は現実の姿に直接触れることにより、中国の良さと遅れた点を垣間見ることができたと同時に、日本との関係において改めて日本を見直すきっかけになったと思う。

 このブログはその時の記録である。これ以上無理解による反目が広がらないことを祈る。

     目指すは「坊ちゃん」と「ドクトルマンボウ航海記」    (李 白扇)
 

 
 

テストと補講

 前にも言ったように3か月で、ずいぶん落ちこぼれに一路邁進している学生が顕著になってきた。彼らにとっては日本語は選択科目だし、別にこれで単位が取れなくとも痛くもかゆくもないと考えている節がある。
 中国も競争社会になってきており、間違いなくそのカオスの中で苦闘しなければならないにも拘らず、それが見えていないようだ。競争社会は競争させられる人間にとっては、大変な苦痛なのである。それが若い彼らには分かっていないようだ。
 しかし、こうして縁のある身となった今、それを黙って見過ごすことはできない。いままで、細々と続けてきた補講を構築し直すつもりである。
 そして、学科主任と掛け合い補講用に小教室を借りた。定員17名ではあるが、今までの私のOfficeと比べると授業ははるかにやりやすい。
 そのことを学生たちに告げ、希望者を募った。すると希望者は出るわ出るわで大変な人数となってしまった。これでは教室にも入れないし、安易に考えすぎる彼らを甘やかすことにもなる。従って人数を絞らなければならないことになる。そこで選別のために小テストを実施した。1か月前にやったのと同じものである。
 結果はやはり一ヶ月間の成果はそれなりに出ておりそれには満足した。
 それはそれとして、テストをしている間、今回は本は見るな、隣の回答は見るなと厳しく?申し渡したにも拘らず、本は盗み見する、隣と相談はする気が付いたら本は取り上げるものの、全くの無法地帯である。
 しかしこちらとしてはある程度ほっておいて彼らの好きなようにさせた。
 そして、テスト終了時に「御苦労さん、私はこのテストの結果は、補講の選別に使うつもりだ。このテストで非常に成績のいい人間は当然それだけの力がある人間だから補講からは外れてもらうつもりだ。」といったところ、彼らは「えー!」と一斉にブーイング。
 しかし、「私は君たちに言ったはず。私は君たちの聞き取り能力を見たいからこのテストを実施したのであり、君たちの隣の答案を見る能力を知りたかったわけではないと」
 彼らにとってはカンニングが裏目に出たわけである。やはり正道を歩んでほしいというのは、どの教師にとっても切なる願いである。