中国旅行は中国と日本の絆の見直し

中国の人々や歴史を日本人との関係で捉えなおすよう心掛けた


 「淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しく留まることなし」
  今から5、6年前中国を通算2年をかけて旅行した。中国語でいう「旅游」である。

 日本のように圧倒的に単一民族が支配的である国に対して、中国の広大で且つ多くの少数民族を内に包含し、多少の矛盾はありながらも、国としての体勢を2000年間の長きに亘って続けてきたということは、それだけでも畏敬に値する。

 今回の旅は現実の姿に直接触れることにより、中国の良さと遅れた点を垣間見ることができたと同時に、日本との関係において改めて日本を見直すきっかけになったと思う。

 このブログはその時の記録である。これ以上無理解による反目が広がらないことを祈る。

     目指すは「坊ちゃん」と「ドクトルマンボウ航海記」    (李 白扇)
 

 
 

手洟


 中国にきて、最初に目につくのがこの手洟ではなかろうか。こちらでも、あちらでも、男も女も、さすがにうら若き女性はあまりなさらないようであるが。
 考えてみれば、これは実に地球にやさしい行為ではなかろうか。第一、紙がいらない。第二に出したものは自然に帰る。中国の人々はここまで地球環境のことを考えて行動しているのかと一種の感動ものである。(というのは冗談であるが・・)
 見ていると実に器用に手洟をかむ。手につかないようにうまく鼻を外に向けて一発。
それでも手に付いたものは、目立たぬようにズボンで拭くとかいろいろしている。中にはそこらの立木で手を拭いている御仁もいたが。
 これは土の上だからまだいいようなものだが、床がタイルだったり、コンクリートだったりすると、やはり自然に帰るまでの間見た目は甚だよろしくない。
 しかし、「郷に入らば郷に従え」という教えもあることであるから、自分でも練習をしてみようという気になった。そしてうまく出来るようなったら晴れて大衆の面前でデビューをと考えた。
 そして実際何回かは試してみた。これがうまく出来るようになるためには、いくつかの難関をクリアしなければならないことが分かった。
それは、何といっても思い切りである。慣れないとどうしても逡巡してしまって、思い切り出来ない。これを思い切りしないと洟は鼻の下から口の周りに付着することになり、極めて気持ちが悪い。次に大事なのは、鼻の息の量と強さである。中国の人々は何といっても生まれたときからあの中国語の発音及び鼻音の練習を積んできているわけで、日本人の声量と鼻息の強さの比ではない。従って思い切りと同時に息の量がある程度ないとうまく飛んでくれないのである。
 この辺りの解析は以下のリンクを見て戴きたい。
 http://blogs.yahoo.co.jp/sguim_m/19719587.html
 そして次に必要なのは、この洟汁は水洟のようにあまり水っぽいのはダメなのではないかということである。
 私が練習したのは少し風邪気味で水洟がはなはだしく、ティッシュの買い置きがなくなったときであるから、あまり固まっていないときであったことと、鼻が詰まってあまり鼻息を出せないときであったので、結果としては鼻の下と口と胸のあたりを汚しただけで実験は失敗に終わった。 

 「周りにもあまりいい感じを与えないのではなかろうか。これは紳士のやることではない」と分かったような分からないような屁理屈を付けて、それ以降は試していない。
 それから後もあちこちでこれを見るたびに、「あのおっさんはうまいな。年期が入っているようだな」「あの若いのはやはりまだ技術が青いな。もう少し飛ばさなきゃ」とか「おいおい、社長今洟をかんだんだろう。その手でおれの栗に触るなよ」とかいろいろ観察し、品評会を自分でやっている。
 そこで一句。
 「栗売りや 触るなふれるな手洟の手」 (李 白扇)
 こうなると俳句というより、川柳になってしまった。
 またまた強引に中国語に これを漢俳というと、品位を汚すと叱られそうであるが、
  卖栗子的人
  别抓得把我买的
  擤鼻涕得手
  
 中国で道を歩いていて、隣を自転車やバイクがすれ違いざま、運転手が顔を横向けたら、要注意である。非常に危険なことこの上ない。もっとも自転車やバイクでの手洟は非常に高度な技術が必要なようで、この場合はもっぱら、つばと痰である。いずれにしろ、危険なのは間違いがない。

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