中国のちまた見聞録

中国を素のまま、生のまま捉える様に心がけました


 「淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しく留まることなし」
  今から5、6年前中国を通算2年をかけて旅行した。中国語でいう「旅游」である。

 日本のように圧倒的に単一民族が支配的である国に対して、中国の広大で且つ多くの少数民族を内に包含し、多少の矛盾はありながらも、国としての体勢を2000年間の長きに亘って続けてきたということは、それだけでも畏敬に値する。

 今回の旅は現実の姿に直接触れることにより、中国の良さと遅れた点を垣間見ることができたと同時に、日本との関係において改めて日本を見直すきっかけになったと思う。

 このブログはその時の記録である。これ以上無理解による反目が広がらないことを祈る。

     目指すは「坊ちゃん」と「ドクトルマンボウ航海記」    (李 白扇)
 

 
 

世界の中の中国

 紹興で周恩来の故居を尋ねた。紹興は江南地方の豊かな土地で、古くは「呉越同舟」の越の都のあったところだ。近代に入っても上海に近いこともあり、時代の波はもろにかぶったのではないだろうか。f:id:China21:20090328125422j:image:left街そのものは水郷地帯とでもいうのか、そこら中に運河が張り巡らされ今も水運は重要な交通機関ではないかと感じる。人口550万の大きな町ではあるが、中国国内では中規模に分類されるだろう。しかし歴史と運河がこの街を非常に雰囲気のある街にしている。








f:id:China21:20090329091739j:image:right 街には魯迅故里(魯迅生家)、蘭亭 -書家王羲之の蘭亭、府山公園 - 越の王城、周恩來故居などの歴史的建造物が目白押しである。






f:id:China21:20100130165420j:image:left この居酒屋は魯迅も通ったという飲み屋で、雰囲気のあるところである。ここで飲む紹興酒は本当においしかった。どんぶり一杯10元しなかったように記憶している。









f:id:China21:20090329115859j:image:leftf:id:China21:20090329114329j:image:right 周恩来はここで旧家の当主として生まれた。代々30代目ぐらいに当たり、相当の名家であろう。かれは毛沢東とともに中国を背負って立つが、誰からも愛され、今なお中国の中では敬愛の眼差しで見られている。また日本にも留学したインテリであり、彼が幅広い見識と国際的な感覚を中国革命の中に吹き込んだ役割は何より大切なことではなかったろうか。





 中国では今なお中華思想が厳然として大きな位置を占めているように感じるが、世界のリーダー的存在になった今、その役割を果たすためにも、そろそろこの古い「中華思想」を見直し、新しい「世界の中での中国」という視点に切り替えてもいいのではないだろうか。
 これは国民性に係わる話なので一朝一夕には進まないとは思うが。
 さて、周恩来の故居に陳列されていたパネルに「5・4運動」というのがあった。これについて少し触れてみたい。これは中国革命の原点みたいなことでもあるので、あえて唐突なようだが、ここに掲げさせてもらう。

 1919年5月4日に北京の学生を中心として暴発的に発生した運動で、第1次世界大戦の後処理を巡って、ドイツが山東省に持っていたっ権益を日本に譲るというパリ講和条約に反対したものである。
 学生たちは「青島は我々のもの」「山東の主権を奪還せよ」「21カ条条約を取り消せ」というスローガンを掲げてデモし、この学生たちの行動はたちまち上海の学生スト、労働者のスト、南京他各地に飛び火し全国的な抗日大運動に発展した。
中国のインターネット上での解説によるとこの「5・4運動」の歴史的意義は「中国の旧民主主義革命から新民主主義革命への転換点の役割を果たした」ということである。この古い形の民主主義革命とはいったい何を指すかは、聞いてみたいものである。毛沢東の定義によると辛亥革命のようであるのだが・・。