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日本では11月入ったら、クリスマスの飾りつけが出たり、何かとその気にさせるのであるが、こちらではどうだろう。学生たちにクリスマスは何かするの?ときいても、全く反応がない。「なんじゃそれは」という感じである。60数年生きてきてクリスマスソングを聞かないでくれた年はないのである。
ところが、こちらでは全く聞かないのである。街でのそれらしいことは全くない。そんなことはないだろう、何かあるだろうと、例の好奇心がむくむくと目覚め街に出てみた。それがないのである。そしてそこら中歩き回ってやっと一軒だけツリーを店頭に飾ってあるのを見つけた。実に歩いた時間にして2時間、6km歩いて、一軒だけである。そんなの信じられる? アラブじゃあるまいに。しかし私のこの発想そのものがおかしいのかも知れない。ややこしいことはさておき、これが、数百軒に一軒の貴重な写真である。
この違いは一体何だろう。日本ではクリスチャンでもないのに、「クリスマス」と大騒ぎ。こちらではそんなことにいささかも動じることなく営々と同じ営みを繰り返している。後生大事に旧暦の正月を繰り返している。これは北京でも、上海でも同じではないだろうか。
日本は、やはりいいとこどりの文化ではないだろうか。別に悪いと言っているのではなく、それが日本文化だ。
あまり自分にこだわることなくどんどん新しいものを取り込んで自分のものにしていく。それを国政レベルでやってのけた先駆者は聖徳太子である。彼は仏教を取り入れ、古い宗教とうまくすり合わせながら融合していった。かれはそれを「和」という。何というご都合主義。しかしそれがあったから、今日の日本があるともいえる。
今この地中国にきて、彼らの文化にほんの少し触れてみて、日本との大きな違いを感じざるを得ない。それは、顔とか皮膚の色とかそういう表面的なものでなく、腹の奥に横たわる何かがそうさせている。
この進取の精神という観点から言うと中国は保守的である。今だに儒教が生きている。今だに「司馬遷」がビジネスの書として愛読されている国なのである。
私の慢歩の旅はまだまだ続く。