中国のちまた見聞録

中国を素のまま、生のまま捉える様に心がけました


 「淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しく留まることなし」
  今から5、6年前中国を通算2年をかけて旅行した。中国語でいう「旅游」である。

 日本のように圧倒的に単一民族が支配的である国に対して、中国の広大で且つ多くの少数民族を内に包含し、多少の矛盾はありながらも、国としての体勢を2000年間の長きに亘って続けてきたということは、それだけでも畏敬に値する。

 今回の旅は現実の姿に直接触れることにより、中国の良さと遅れた点を垣間見ることができたと同時に、日本との関係において改めて日本を見直すきっかけになったと思う。

 このブログはその時の記録である。これ以上無理解による反目が広がらないことを祈る。

     目指すは「坊ちゃん」と「ドクトルマンボウ航海記」    (李 白扇)
 

 
 

カンニング


 金曜日の小テストの結果を学生たちに話した。「君たちのテストの結果をみたが、あまりに良すぎる。何であんなに多くの人が100点を取るのだ。これはカンニング以外何物でもない。約束した通り、いい成績の学生は、補講は受けることができないよ。」
 カンニングというのは、中国語で作弊という。  
 「作弊一点也没有好东西」と黒板に大きく書き、続いて
  「少年易老学难成 shàonián yìlǎo xuénánchéng
  一寸光隐不可轻  yīcùnguāngyǐn bùkěqīng
  枕上池糖春草梦 zhěnshǎng chítáng chūncǎomèng
  阶前梧叶已秋声 jiēqián wúxié yǐqiūshēng」

ピーインを付けておいたので、しばし漢詩の響きを思い出していただければ幸いである。     
これは偶成という名で知られる漢詩である。朱子学の祖、朱子の作であるといわれているが、その可能性は低いということである。
さすがにこの歌は学生たちはよく知っていて、口に出して読んでいた。
 このときばかりは、学生たちも少し反省をしたのか、今までの騒がしさは静まり、一瞬「白け鳥」が飛んだのかと思ったほどである。おかげで今日の授業は、今までになく厳粛な雰囲気の中で終えることができた。ま、今日だけだろうが。それでもま、いいか。
 授業が終わって、学生たちが、「先生、補講を受けさせて下さい。」と何人もが頼みにきた。「君たちは、成績優秀だからその必要はないだろう。」と少し意地悪を言いつつも、「いやとは言えない」自分がそこにあった。これどうしたもんか困ったものだ。彼らの要求を入れると、人数が多すぎて、収拾がつかなくなる。かといって絞り込みすぎると、大量の置いてけぼりを残すことになる。自業自得といえ困ったものである。
 しかし、こういう話を書く度に、もう少し自分も自覚していたらと思うことになり、自分のことを棚に上げてよく言うよという気になる。そして、最後は「自分のことを棚に上げずして、何で教師が出来るか。聖人君主じゃあるまいに」と開き直るのである。