カンニング
金曜日の小テストの結果を学生たちに話した。「君たちのテストの結果をみたが、あまりに良すぎる。何であんなに多くの人が100点を取るのだ。これはカンニング以外何物でもない。約束した通り、いい成績の学生は、補講は受けることができないよ。」
カンニングというのは、中国語で作弊という。
「作弊一点也没有好东西」と黒板に大きく書き、続いて
「少年易老学难成 shàonián yìlǎo xuénánchéng
一寸光隐不可轻 yīcùnguāngyǐn bùkěqīng
枕上池糖春草梦 zhěnshǎng chítáng chūncǎomèng
阶前梧叶已秋声 jiēqián wúxié yǐqiūshēng」
ピーインを付けておいたので、しばし漢詩の響きを思い出していただければ幸いである。
これは偶成という名で知られる漢詩である。朱子学の祖、朱子の作であるといわれているが、その可能性は低いということである。
さすがにこの歌は学生たちはよく知っていて、口に出して読んでいた。
このときばかりは、学生たちも少し反省をしたのか、今までの騒がしさは静まり、一瞬「白け鳥」が飛んだのかと思ったほどである。おかげで今日の授業は、今までになく厳粛な雰囲気の中で終えることができた。ま、今日だけだろうが。それでもま、いいか。
授業が終わって、学生たちが、「先生、補講を受けさせて下さい。」と何人もが頼みにきた。「君たちは、成績優秀だからその必要はないだろう。」と少し意地悪を言いつつも、「いやとは言えない」自分がそこにあった。これどうしたもんか困ったものだ。彼らの要求を入れると、人数が多すぎて、収拾がつかなくなる。かといって絞り込みすぎると、大量の置いてけぼりを残すことになる。自業自得といえ困ったものである。
しかし、こういう話を書く度に、もう少し自分も自覚していたらと思うことになり、自分のことを棚に上げてよく言うよという気になる。そして、最後は「自分のことを棚に上げずして、何で教師が出来るか。聖人君主じゃあるまいに」と開き直るのである。