新年のご挨拶
「明けまして おめでとうございます」
こちらでは、あまりめでたいことはないらしい。ホテルでも従業員は相変わらず無愛想だし、何も変わったことはない。
「めでたさも半分なりや 旧と新」 (李 白扇)
街を歩いても普段より少し華やかかなと感じるだけであり、日本のように掃除がいきわたっているわけではないし、角松が立っているわけではない。皆が普段着ないようなきれいな服装をしているわけでもない。飯屋の老板は昨日となんら変わりなく、ぼさぼさの頭に、油と手垢で汚れきった前掛けをぶら下げている。猫もいつもと変わりないような顔をして塀の上で日向ぼっこをしている。犬は犬で取って食われないように絶えず警戒の目を光らせているように見える。すべてが、昨日と寸分違わぬことが繰り返されているように見える。
これが、旧正月になると違うのかも知れない。なんて思いだすと、いっそのこと残ってそこまで見極めてみたい気になってくる。
それはさておき、このように、一見全く同じことが繰り返されているにも関わらず、国レベルで見ると、世界レベルで見ると大きく変化しつつあるのは確実だ。それこそ30年前にガルブレイズ氏が「世界は激動の時代に入った」といったことが、予見ではなしに、現実のこととして目の前で繰り返されるようになった。地殻変動の地響きを立てている。ここ数年、地球温暖化という自然現象も含め、非常に不気味な動きがでている。
しかし厄介なのは、目の前で繰り返されている事柄とこの底辺の変動とが一般的には結びつかないことである。むかしのアメリカ映画で、ラスベガスの地下をどろどろのマグマが噴き出しているにも関わらず、その上で生活する市民は、いつもと変わりなく、「おれの土地だ。それ買い物だ」と言っているうちにマグマが噴き出してくるというのがあったが、それとよく似ている。
エンゲルスは「哲学者は世界をいろいろに解釈してきた。しかし大事なことは、それをどう変えるかである。」と言っている。
そう、今は我々一人一人が、「世界をどう変えるか」という立場に立つことが、要求されている。しかも、一刻の猶予もなしに。
以上大変深刻な話になったが、平たい話、「自分の身は自分で守りなはれ。その為に具体的にできることからやりなはれ。」ということである。
これが、深刻な事態から抜け出るための、一歩ではなかろうか。
もう、「どうしょ、どうしょ」と言って済む時代は終わったということだ。お互い大変ですね。それこそ「あーみーとーぼ」である。