中国のちまた見聞録

中国を素のまま、生のまま捉える様に心がけました


 「淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しく留まることなし」
  今から5、6年前中国を通算2年をかけて旅行した。中国語でいう「旅游」である。

 日本のように圧倒的に単一民族が支配的である国に対して、中国の広大で且つ多くの少数民族を内に包含し、多少の矛盾はありながらも、国としての体勢を2000年間の長きに亘って続けてきたということは、それだけでも畏敬に値する。

 今回の旅は現実の姿に直接触れることにより、中国の良さと遅れた点を垣間見ることができたと同時に、日本との関係において改めて日本を見直すきっかけになったと思う。

 このブログはその時の記録である。これ以上無理解による反目が広がらないことを祈る。

     目指すは「坊ちゃん」と「ドクトルマンボウ航海記」    (李 白扇)
 

 
 

丑年の暮れ

今年もあとわずかである。街には年末のあわただしさが見られるが、心なしか今年はその元気も余りないように思える。特にクリスマスのあの慌しいジングルベルのリズムも今年は余り聞けなかったように思うし、クリスマスケーキもそれほどバカ売れしているようには思えない。
 しかしながらいつもと全く変わりないのが年賀状の作成である。この20年ほどずっと「プリントごっこ」を使ってきた。今年も早速インクとランプとスクリーンを買いに出て驚いた。往年あれほど幅を利かしていた「プリントごっこ」の売り場が今年は殆ど見られなかった。どこでもパソコンとプリンターにとって代っしまったのだろう。
 さて来年は寅年、今年はうし年、一昨年はねずみ年と殆ど何の疑念も持たないですごしてきた。しかし何故ねずみ、牛、虎なのか。深く考えたこともない。しかし、寅は虎ではないし、丑は牛ではなく、子は鼠ではない。そこで、この十二支について少し深めてみたい。
日本では十二支に動物を割り当てるが、中国や朝鮮でもそうであるのだろうか。中国などででも、十二支にかかわる笑い話もあり、日本と同じよう十二支は立派に生活に根付いているようである。われわれはこの生まれ年を使って性格判断をしてきた記憶もある。「あなたは未年だからおとなしいんだね。」とか「私はねずみ年だからこちょこちょはしているのよ」とか・・。
そこで中国の笑い話で、この生まれ年にまつわるものを紹介したい。

ある地方に中央から一人の長官が任命された。さて地方のノンキャリアの人たちは中央からの長官ということで、こぞって取り入ろうと必死だ。ある時長官の誕生日に贈物をしようと相談をした。長官は「子年」であり、いろいろ考えた結果、「金無垢のねずみの彫り物」を贈った。長官は大層喜んで、毎日毎日なぜたりさすったりと大変なものである。それから暫くして長官が皆にお礼を述べた後、「来月はうちの家内の誕生月だよ。ところで家内は牛年生まれだ。」

どこの世の中にも得てしてあること。今の日本でも立派に通用する話だ。

f:id:China21:20100106112507j:image:right  さて今日はこの「丑」という漢字の語源を遡ってみることにしたい。右の文字は左から甲文(甲骨文)、金文、小篆(テン書)、楷書の書式で書かれた「丑」である。
 この甲文というのは殷の時代に使われた文字で占いの亀の甲に書かれていたものである。この文字は基本的に象形文字そのものであるといわれている。
 さてこの丑という文字の最も古い形の甲文は、嬰児の手を表しているといわれている。出生直後の嬰児の手の特徴は硬く握り締めて出てくることで、死んだときの手と著しい違いを見せている。


「丑」は十二支で2番目の位置を占めていて、「子」から「寅」に至るまで出生の状態がこの3文字で表現されているとのことである。
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ちなみに「子」はまさに胎児が母体中を降りてきて生まれるさまを表現しているそうだ。そういわれれば確かに!
 このように十二支は、人間の出生から母と胎盤の分離、男と女、生殖のシンボルなど古代人の願いを反映したものとなっていたが、後の時代になって時刻と方向にもっぱら使われるようになり、原義は次第に失われたと考えられるといわれている。
十二支は古代人の子孫繁栄の願いがこめられこの世に作り出されたものでり、動物は跡付けの話のようである。
 
漢字の世界は奥が深い

今年の漢字「新」

日本漢字能力検定協会今年の漢字は「新」であると発表した。アンケート結果による選定ではあるが、その選定理由として下記のいくつかの点が上げられている。

  • 民主党による新政権の実現、アメリカのオバマ大統領の就任
  • イチローの新記録達成
  • 新型インフルエンザ
  • 制度の新 裁判員制度やエコポイント
  • 未来への新 新しい時代の始まり

これらはいずれも時代の大きな流れを感じさせるものであるが、漢字能力検定協会自体についていえば、前理事長一族の数々の不正に対する糾弾を受け、新しく体勢を立て直したことの「新」を掲げる必要があろう。これらの腐敗の元は完全に断ち切ってしまっていることを期待する。そのことを明確に示すため、これを番外の理由として揚げてほしかった。
f:id:China21:20100104123420j:image:rightさてこの「新」という字であるが、右のような由来を持っている。
 「甲文」は甲骨文字、「金文」は鐘や県(あがた)に鋳られたり彫られた古代文字、「小篆」は秦の李斯(りし)が整理したとされる古代書体の一つ、「楷体」現代の書体

 中国の唐汉(唐漢)という人の書いた「汉字密码」(漢字の暗号)によると、甲骨文字は捕虜を拘束するための刑具をあらわす「辛」と曲がった柄の斧を表す「斤」の二つの記号から構成されている会意文字で、捕虜を護送した後、斧で首を切り落とすの意味である。ところで、捕虜から奴隷になると言うのは、一種の新しい命運の始まりで、それゆえ新の本意は新生であるとする。死から免れて新しい命運を始めることから、一般に新しいという意味に用いられるようになった。
漢字源によると、もう少し平和主義的で「辛」は鋭い刃物を描いた象形文字で、シンという音も表し、「木+辛」で木を切ることを表し、右の文字「斤」の斧とあわせ木を切ることとしている。切り立ての木を表し、生々しいということから新しいという意味を持つ。
 ちなみに中国では今年の漢字は「被」と言われている。これは何事も自分の意思で決定できなく受身的な気持ちの表れと言われているが、果たしてどうだろう。「辛」というのは、捕虜を拘束する刑具であるというのが中国では通説のようだ。

リニアモーターカー搭乗機

上海市内から浦東空港までは地下鉄では約30分、車では約1時間である。今回リニアモーターカーを利用することにした。所要時間は6,7分とのことで、代金は通常50元だが、国際線に乗るということで10元の割引で40元であった。
 リニアモーターは地下鉄2号線の龍陽路駅と浦東空港間を走っている。












 先頭車の画像は取り損ねたので、ウイズペキアから拝借した。駅も車体もつまり何もかもまだ出来たばかりであるため、きわめて美しい。室内は写真に見るごとく天井が低く少し背の高い人であれば頭がつかえてしまうだろう。しかしこれ以上高くするとなると物理的に不可能と考えられる。
 乗り心地は初めてのことであるし、こんな物じゃないかと思う。少し揺れがあるものの気になるほどでもない。
 車内にいて430KM以上もスピードが出ていると言う感覚はまったくない。

 値段的には中国国内の交通手段としては随分高いものである。なにしろ40元あれば上海から南京あたりまで優に行ってしまう。こんなに早いものは必要かという議論はあろうが。国際空港のインフラとしては数分で都心に行ってしまう利便性はやはり魅力である。これからは空港の交通システムのお手本になるのではないかと考える。
 安全性などを考えると空港はある程度都心から離れたところに作らざるを得ないし、さりとて往復に時間が余りかかったのでは、客の足も遠のいてしまう。
 写真は最高速度431kmを出したときのスピードメーターの表示である。

新幹線搭乗記

今回8か月ぶりに中国を訪れた。今回も上海から入り、上海から出ることになった。上海空白の期間はわずか8か月である。しかし、その間の変化の大きさには驚かされる。まず上海の汽車駅が大きく変わっていたことだ。また市内は上海万博をターゲットとしているのか、あちこち工事中の看板と標識だらけで、昨日の上海は今日はもうない。地下鉄も大幅拡張されているようであるし、上海の地下は穴だらけでないかと感じられる。
今まで上海の新幹線に乗ったことがないが、今回利用してみた。新幹線は中国では动车(動車)と呼ばれている。長距離バスに比べると大分割高であるが、上海駅の場合は地下鉄と新幹線の乗り換えはバスと比べるとはるかに便利である。
地下鉄からバスに乗り換えようとするととんでもない距離を歩かされる。それに新幹線のほうが座席がゆったりしていて、気分的に楽である。
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写真は新幹線の先頭部分である。ごく最近の日本の新幹線モデルと非常に良く似ている。流体力学的に設計した帰結かも知れないが、もう少しオリジナリティーがあってもいいのではないかと思う。しかしこの形は美しい。モデルの名前は「和谐号」というようである。





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ちなみにドイツとフランスの高速鉄道を調べてみた。右の頭の丸いのがドイツの型で、左の頭がとがったのがフランスのものである。ウィイキペディアからの引用である。これらは比較的新しいモデルであるが、日本の新幹線とは随分異なるモデルになっているが、中国のものは、非常によく似ている。中国独自のモデルかもしれないし、日本からの技術供与(あったかなかったかも不明)の結果かもしれない。しかしここではあまりそのことは問題としないことにしよう。

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 新幹線の内部はまだ新しいせいかもしれないが、小ぎれいである。一等は横4列で、2等は横5列のシートである。座席の硬さは1等も2等も同じであり、日本の新幹線のグリーンと普通車ほどの大きな違いはない。この写真は1等のものである。
座席の後ろの網のもの入れには情報誌が入れてあったが、これからの拡張計画が書かれてあり、かなりの発展計画がされているようだ。
走行本数もそこそこあり、利便性も著しく向上しているようである。




f:id:China21:20091130180158j:image:left 帰りは2等の車両の席を取ったのだが、この車両には給湯設備がついていた。それ自体は問題がないのだが、夕飯時になると乗客がインスタントラーメンに湯を入れにここに集まることと、ラーメンのにおいがあたりに充満するのには閉口した。更に悪いことには私のスーツケースはこの給湯器の前におくように指定されたため、皆さんが置き台の代わりにスーツケースを使ったらしく、ラーメンの汁がこぼれて汚いことになっていた。

客筋が1等と2等では少し違うようであり、マナーの点でまだ考えさせられる部分は多いように思う。
 もう一点気がついたのは、窓のフレームの部分にハンマーが掛けてあったが、事故で閉じ込められた場合、窓ガラスを叩き割るためのものであるらしい。これも日本ではあまり見かけない光景である。

世界の中の中国

 紹興で周恩来の故居を尋ねた。紹興は江南地方の豊かな土地で、古くは「呉越同舟」の越の都のあったところだ。近代に入っても上海に近いこともあり、時代の波はもろにかぶったのではないだろうか。f:id:China21:20090328125422j:image:left街そのものは水郷地帯とでもいうのか、そこら中に運河が張り巡らされ今も水運は重要な交通機関ではないかと感じる。人口550万の大きな町ではあるが、中国国内では中規模に分類されるだろう。しかし歴史と運河がこの街を非常に雰囲気のある街にしている。








f:id:China21:20090329091739j:image:right 街には魯迅故里(魯迅生家)、蘭亭 -書家王羲之の蘭亭、府山公園 - 越の王城、周恩來故居などの歴史的建造物が目白押しである。






f:id:China21:20100130165420j:image:left この居酒屋は魯迅も通ったという飲み屋で、雰囲気のあるところである。ここで飲む紹興酒は本当においしかった。どんぶり一杯10元しなかったように記憶している。









f:id:China21:20090329115859j:image:leftf:id:China21:20090329114329j:image:right 周恩来はここで旧家の当主として生まれた。代々30代目ぐらいに当たり、相当の名家であろう。かれは毛沢東とともに中国を背負って立つが、誰からも愛され、今なお中国の中では敬愛の眼差しで見られている。また日本にも留学したインテリであり、彼が幅広い見識と国際的な感覚を中国革命の中に吹き込んだ役割は何より大切なことではなかったろうか。





 中国では今なお中華思想が厳然として大きな位置を占めているように感じるが、世界のリーダー的存在になった今、その役割を果たすためにも、そろそろこの古い「中華思想」を見直し、新しい「世界の中での中国」という視点に切り替えてもいいのではないだろうか。
 これは国民性に係わる話なので一朝一夕には進まないとは思うが。
 さて、周恩来の故居に陳列されていたパネルに「5・4運動」というのがあった。これについて少し触れてみたい。これは中国革命の原点みたいなことでもあるので、あえて唐突なようだが、ここに掲げさせてもらう。

 1919年5月4日に北京の学生を中心として暴発的に発生した運動で、第1次世界大戦の後処理を巡って、ドイツが山東省に持っていたっ権益を日本に譲るというパリ講和条約に反対したものである。
 学生たちは「青島は我々のもの」「山東の主権を奪還せよ」「21カ条条約を取り消せ」というスローガンを掲げてデモし、この学生たちの行動はたちまち上海の学生スト、労働者のスト、南京他各地に飛び火し全国的な抗日大運動に発展した。
中国のインターネット上での解説によるとこの「5・4運動」の歴史的意義は「中国の旧民主主義革命から新民主主義革命への転換点の役割を果たした」ということである。この古い形の民主主義革命とはいったい何を指すかは、聞いてみたいものである。毛沢東の定義によると辛亥革命のようであるのだが・・。