おっさん、八宝菜食ったか
こちらに来てもうすぐで一カ月になる。早いものだ。こちらの秋も一段と深まってきたようでいつの間にか日中もそれほど暑くなくなり、日の沈むのも早くなってきた。
自分も幾分現地の顔になってきたのかなと感じる時がある。それは街を歩くとき、不思議と輪タクの運転手が声を掛けてこなくなった。少し前までは、少し歩けば「大将、どこまで行くんや。安くしまんがな。」と言ってきた。勿論彼らが大阪弁で言ってくるはずもなく、れっきとした揚州弁であるが、それが大阪弁に聞こえてしまうから不思議である。そして彼らの語尾の最後には「あー」と付け加える。
この前もこちらが大学に行くためバス待ちをしていると、「おっさん、八宝菜食ったか。ああ」と聞いてきた。「うるさいわい。こちとら飯もクットランワイ。それになんで朝から八宝菜を食わなきゃならんのだ」と思ってしまうが、例の調子で「分かりません。」 かれは、「社長、どこの国の方ですか」と言っていたと思うから、面倒だと思うだけで、ことさら腹を立てることでもない。むしろこういう会話がうれしいのだ。
しかし最近これがない。周りが自分と同胞だと思い始めたのか、「こいつは金ももっとらんようで声をかけるだけ無駄だ」と思い始めたのかよく分からん。しかしお声がかからなくなったのは確かだ。
店に入っても少し前は女店員などが寄ってきて、「お客さん、どこの国の人?」とか、「中国語うまいね」とか周りに人垣ができたくらいである。それが最近では「このおじさんは福建の人、台湾の人、それにしても訳のわからんこというわね。中国語みたいやけど。どこの人やろ」といった具合で怪訝な顔をする。昨日の可愛い笑顔を見せてくれよという感じである。
同じことは学校でも同じである。少し以前は「もういい。そんなことは自分でする。」と言いたくなるほど、いろいろ構ってくれたものだ。ところが最近は、「あ、そー。(自分で)やれば」である。勿論これは少し誇張しているが、前ほど気を使わなくなってきたということだ。
自分にとっては少しさびしいが、輪タクもしつこい誘いがなくなってきただけでも、心穏やかに街を歩けるというものだ。
ここで一句。
「いつの間に 外(と)つ国の秋 我なじむ」
时过不知道
外乡的秋天来了
我适应着嗯 (李 白扇)