中国のちまた見聞録

中国を素のまま、生のまま捉える様に心がけました


 「淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しく留まることなし」
  今から5、6年前中国を通算2年をかけて旅行した。中国語でいう「旅游」である。

 日本のように圧倒的に単一民族が支配的である国に対して、中国の広大で且つ多くの少数民族を内に包含し、多少の矛盾はありながらも、国としての体勢を2000年間の長きに亘って続けてきたということは、それだけでも畏敬に値する。

 今回の旅は現実の姿に直接触れることにより、中国の良さと遅れた点を垣間見ることができたと同時に、日本との関係において改めて日本を見直すきっかけになったと思う。

 このブログはその時の記録である。これ以上無理解による反目が広がらないことを祈る。

     目指すは「坊ちゃん」と「ドクトルマンボウ航海記」    (李 白扇)
 

 
 

「あそび」に見る中国人考

 同僚の教師と話をしていて、製造業の到達レベルは、日本と中国の間で随分違うという話になり、私は「現在は確かに違いはある。しかしもう10年もすれば、同じになるだろう」と多少のお世辞も交えて言うと彼は首をかしげていた。
 一方こちらの日本人の間でよく議論になるのが、中国人のいいかげんさということである。中国人の半分はいい加減で、あとの半分はきちんとしているという。これは彼自身の説というより中国人自身がこういっていたというのである。
 また、こちらへ来る前に日本で聞いた話は、何を注文してもまともなものは少なく、お釈迦になるものが非常に多かったという話ばかりであった。
 わたしはこちらに来て感じるのは、これらのことは中国人のいい加減さから来ることではなく、中国人と日本人の「あそび(許容度)」の大きさの違いではないかと考えている。
 機械ものには必ず、「あそび」というものが存在する。ハンドルでも何でも「あそび」がないと人間の少しのぶれに機械が反応してしまい、かえって危険なものになってしまう。
 これは人間にも同じことが言えて、周りの刺激に対する「あそび」がないと、生きていけないことになる。日本人に比べ中国人はこの「あそび」が大きいのではないかと感じている。これがいい加減そのものと言われればそうかもしれないが、「ここまでなら許せる」という許容範囲が日本人では狭く、中国人には大きいのではと思う。どちらがいいという問題ではない。
 日本の企業で行われたZD運動が中国では、どう展開されたのか聞きたいものである。おそらく「中国人なら、この場合はこう反応するはずということを考えに入れた」日本のそれとは違う運動が展開されたのではと考えている。
 
 例えばこの中国で、日本と同じような品質管理をした場合、この広い国土の中で、はたして通用するのかと疑問を持つ。
 つまり、考えかたの基準だけはしっかり決めておいて、「あそび」の巾は運用で決めないととてもやっていけたものでないと思うのである。
 これは、あらゆることに言えることで、交通ルール、マナー、道徳、法令など生活全般にかかわってくることではないだろうか。

 中国は有人人工衛星を成功させているが、日本はまだである。これ一つとっても、「中国人のいいかげんさ」という一言で片付けられないものがある。

 この問題は、この滞在期間の間にある程度はっきりさせたいと思う。