中国のちまた見聞録

中国を素のまま、生のまま捉える様に心がけました


 「淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しく留まることなし」
  今から5、6年前中国を通算2年をかけて旅行した。中国語でいう「旅游」である。

 日本のように圧倒的に単一民族が支配的である国に対して、中国の広大で且つ多くの少数民族を内に包含し、多少の矛盾はありながらも、国としての体勢を2000年間の長きに亘って続けてきたということは、それだけでも畏敬に値する。

 今回の旅は現実の姿に直接触れることにより、中国の良さと遅れた点を垣間見ることができたと同時に、日本との関係において改めて日本を見直すきっかけになったと思う。

 このブログはその時の記録である。これ以上無理解による反目が広がらないことを祈る。

     目指すは「坊ちゃん」と「ドクトルマンボウ航海記」    (李 白扇)
 

 
 

南京人

南京人は「大きな大根」。これは、南京出身の作家夜叶兆言が言った言葉だ。その背景はよく知らない。しかし、揚州からこちらに来て感じるのは、南京の人は揚州の人に比べるとおっとりしている気がする。タクシーに乗っても、道を聞いても対応が随分違う。なぜそうなったのだろう。そんなこと分かったものではないが・・。
 それにしても、今日もよく歩いた。
f:id:China21:20090119104953j:image:right あまり時間もないので、石頭城、中華門を見て歩く。石頭城は廃墟でむき出しの岩肌が年月の経緯を物語っている。その昔、孫権がここに城を築き、呉の軍の軍事的要衝としたということである。孫権の時代と言えば三国時代で紀元200年前後であるから、
1800年も前のものである。勿論古ければいいといいものでもないが・・。







f:id:China21:20090119145302j:image:left 中華門は明朝の初代皇帝朱元璋が当代屈指の城を築いて、その城郭は今も現存している。中国政府はその文化遺産を残すため、この城を補強したと思われ、古い城郭だけではなく、新しい城壁がそれに続いている。明と称号を改めたのは、1368年の
ことである。その後1600年台のはじめには明は滅びるわけで、その時の明の臣下として、清と頑強に戦い、ついに自害してしまうのが揚州の史公祠である。










f:id:China21:20090119200521j:image:right 最後に南京でなければ出来ないことはと考え、現地のガイドブックに掲載されていた、「全福楼」という店に小笼包食べに行った。ガイドブックによると古風な建物で営業しているとあるが、行ってみると、そんな建物はどこにもなく、ようやく探し当てたのはそこそこ近代的なビルであった。
 ともかくお目当ての小笼包を注文する。セイロのような蒸し器に入ったのが運ばれてきた。1人前12個で、21元である。足りるかなと少し心配したが、心配無用で、一つ一つが大きく、12個を食べるのはかなりしんどかった。味はともかく皆さん嘘でもいいから行ってみて味わってください。ともかく旨い。しかし日本人にとってはこの12個はのつごつするので、何人かでシェアするのがいいのではないかと思う。

これで、全日程を終了した。すべて終わった。後は明日の朝4時に起きて。空港に行くだけである。
 
 さらば揚州、さらば南京