中国のちまた見聞録

中国を素のまま、生のまま捉える様に心がけました


 「淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しく留まることなし」
  今から5、6年前中国を通算2年をかけて旅行した。中国語でいう「旅游」である。

 日本のように圧倒的に単一民族が支配的である国に対して、中国の広大で且つ多くの少数民族を内に包含し、多少の矛盾はありながらも、国としての体勢を2000年間の長きに亘って続けてきたということは、それだけでも畏敬に値する。

 今回の旅は現実の姿に直接触れることにより、中国の良さと遅れた点を垣間見ることができたと同時に、日本との関係において改めて日本を見直すきっかけになったと思う。

 このブログはその時の記録である。これ以上無理解による反目が広がらないことを祈る。

     目指すは「坊ちゃん」と「ドクトルマンボウ航海記」    (李 白扇)
 

 
 

竜馬と商標といごっそうとはちきん

今高知ではどこにいっても「竜馬」「竜馬」である。以前からそのようなきらいが無きにしも非ずだったのだが、NHK大河ドラマで「竜馬伝」が始まって以来特にひどい。空港も不動産屋もレストランもなにもかも竜馬である。このままでは猫や犬にまでつけられているのではと感じる。しかし何でもかんでも竜馬という名前をつけるのは竜馬に対する冒涜ではないだろうか。
 つい先ごろ最高裁判所の判断として、「吉田松陰」などの人名に商標権を設定することは出来ないという判例が出された。台湾や中国で「秋田県」などの県名に商標権が設定され非常に問題となっていると聞く。
 しかし商標でなくても呼称でも地名でも同じことではないだろうか。嫁と同じ名前を飼い犬や猫につけて嫁いびりをした姑があったと聞く。
 たとえばトイレットペーパーの竜馬の顔を印刷しブランド名を「竜馬」とつけたらどうであろう。考えてみただけでも、竜馬の著しい冒涜に当たるだろう。地下の竜馬に「こちゃんとえずいことをしゆうがやきね。おまんらなにをしゆうがかよ」と怒鳴られそうである。
 よしんばそれがどんなに素晴らしいものであったにせよ・・。
 しかし外国では国旗を刷り込んだ下着もあるということだから、善意ばかりを信じるわけにはいかないし、悪意を想定すれば、民主的でないと批判される。とかくこの世は難しい。
 さて、今旬の話題には違いないので、ミーハーよろしく、高知市丹中山の坂本家の墓を訪ねてみた。ここは最近、高知市が観光を当て込んで整備して、一種の公園のような感じに整備したものだ。
 高知市路面電車の停車場に「上町五丁目」というのがある。昔はここに遊郭があったが、今は再開発されその面影をとどめない。
この電車通りのひとつ北にこの電車通りと平行に走る小さな路地がある。この路地を少し西のほうに行くと、本当に小さな川にかかった小さな橋の袂に「坂本家の墓」という看板がある。その看板に沿って案内通りにいくと右手に短い坂がある。その坂の上あたりに問題の墓地公園がある。
 この一帯には坂本家の墓以外に植木枝盛の生誕地や平井収次郎の墓や句碑などがある。







 他人の墓ではあるが、観光地として整備されていることもあり、多少の遠慮はしつつ写真を多く収めてきた。坂本乙女、坂本栄など世間にも良く知られた女性たちの墓が並ぶ。高知ではこのような強烈な個性を持った女性を「はちきん」と呼ぶ。
 土佐男の「いごっそう」と土佐女の「はちきん」は、今でもその強烈な個性が脈々とこの世に伝えている。
 「いごっそう」 いったん言い出したらてこでも動かない個性は、ほかの人から見ると偏屈にも見えるし、余り世渡りがうまくないきわめて不器用な男たちである。
その点女性たちは、強烈であるが、たおやかでかつ飛び跳ねた人が多いと見るのは私だけだろうか。
 
平井収次郎は、武市半平太の「土佐勤王党」に呼応し、後に山内容堂の怒りを買い切腹を申し付けられる。その時の無念の想いを牢の壁に爪書きしたとされる辞世の句碑などがある。平井収次郎の辞世の句は難しい漢文ではあるが、世の中にたたきつけるような思いが感じられ、あのころの若き志士たちを現代に髣髴させるに十分で余りある。ただ余りに感情的でいただけないのは、仕方がないのか。吉田東洋武市半平太に言った「これぐらいの男でしかなかったのか」がよく分かる。これは歴史的制約なのかもしれない。よく分からない。これは元々加尾が墓碑に刻んだものであったそうだが、土佐藩の命により削り取られたのを加尾が修復し、その後一世紀を経て親戚の人々が現在の形に建て直したとの事である。この加尾もまた正真正銘のはちきんだったのだろう。どんな想いでこの句碑を立てたのだろう時代を超えて、いとおしさを感じる。

加尾
平井収二郎の妹。 坂本龍馬の幼なじみで、龍馬の初恋の人とも言われている。

文化の底流「義」

日中両民族の文化の底流に流れる「義」
一昨年のヒットした中国映画は「赤壁」。その底流にあったものは「義」である。蜀は「義」を掲げ魏と戦った。また昨年のNHK大河ドラマの「天地人」の基本テーマは景勝の「義」と直江兼継の「愛」であった。ドラマはこの二人の武将の掲げる旗印を軸に展開した。
 このように中国でも日本でも「義」というのは、共通の思想というべきものかもしれない。義に対する態度で自己中心型と自己滅却型の違いはあるにせよ、両民族に共通して流れる思想が「義」であることにはあまり依存はないであろう。この背景には「儒教思想」がある?
 中国では儒教思想として完成されてからつい先日まで、「忠、孝、節、義」という言葉が、「仁」という言葉ともに人間の行動・生き方の規範として語られてきた。日本でも同じようにこれらの言葉が人々の生活に深く根ざしていた。しかし日本では、先の戦争によって、この言葉は重さを失い、中国では文化大革命によって、この思想は孔子と共に葬り去られた。
 ところがその中国を歩いてみて、この旧思想の代名詞の形で「批林批孔」と批判された「義」が言葉としてだけでなく、具体的な行動の指針として、まだ人々の間に息づいていることが分かり、社会が変わっても人々の意識は脈々と受け継がれるものだと改めて感じている。






漢字「義」はそもそも何だったのか
 そこで今日は、手始めに「義」という文字の源流に焦点を当ててみたい。
ここで再び唐漢氏に登場願う。彼曰く、



出典:「汉字密码」 (唐汉著 学林出版社)

「義」という字は、羊と我という文字から成り立っている。ここで「羊」はこの種の頭上にある大きく湾曲した角を指す。その意味は羊の統率指導権や交配優先権を表すものだと解釈されている。そして「我」というのは古代の長い柄の一種の兵器のことであるが、形が美しく作られ実際の戦闘には不向きで、軍隊の標識用に作られたものだとしている。したがって「義」という字は、本来は「羊」の頭を指し自分あるいはグループの権力、戦闘に向かう集団の権力の誇示に並べたものであろうということである。
 このことから「義」は情理・正義に合致した名目の立つ出兵を示し、公正適切な言行を指すようになったということである。

 とすると「義」という言葉が殷や商の時代には単に軍隊の標識というシンボルという意味から「義」という思想的な色彩帯びた使い方に変質していたことを示していることになる。



今の世でも「義」は生きているのか
 日本ではこの「義」という言葉はどう使われてきたのだろう。この言葉で私が一番先に思い出すのは「義理」である。しかし今やこの言葉は歌の世界でも映画の世界でもそして現実の世界でも死滅してしまったのではないかとさえ思われるが果たしてどうだろう。
 

頑固もの、一皮向けば愚か者

「人は年を取ると頑固になる」とよく言われる。ところがすべての人が頑固になるわけではなく、年をとればとるほど柔軟性を増す人もいる。
 自分はと振り返って考えてみれば、前者のほうになることは間違いがない。時として自分でもいやになるほどこだわり、拘泥してしまう。「この局面では、相手の言うことをもっと聞いてやらないといけない」「もっと寛容にならなければいけない」と思いつつ、そうできない自分がそこにある。特にそのような関係を醸成しがちなのは、夫婦の関係じゃないかと思う。他人であれば二度と相手にしてくれないが、夫婦であれば「お互い」という甘えがある。そこには緊張感がない。「今年こそは・・」と思いつつ、また同じことを繰り返しつつある。
 ところでこの「頑固」という言葉は日本ではもっぱら「かたくなである」という意味に使われているようだ。中国ではもちろん日本と同じ意味があるが、それ以外に「愚かである、保守的である、反動的である」というようにもう少し広い意味にも用いられるようである。もう一歩突っ込んで「頑」で引いてみると、「かたくなである」以外に蒙昧無知とほぼ同様の意味を持つ「愚蠢无知」とあり、愚かで無知ということでおよそほめられた話ではない。
 気をつけないと「待ちぼうけ」のウサギのように硬い切り株に頭をぶっつけて死んでしまうのかもしれない。ちなみにこの頑固のことは英語で「stubborn」ともいい、「生まれつき切り株のように硬い頭」という意味だ。

虎を描きてならず返りて犬に類す

 インターネットを覗いていたら、中国の装飾品を売っているある店で虎の置物を作ったということが紹介されていた。置物といっても全長5、60cmほどもありそうな大きなもので、その体全面に真珠らしきものがちりばめてある縁起物である。なるほど中国の人は干支で縁起を担ぐのだなと感心したが、その一方で、その力作の「虎」を見るとおよそ虎には見えないお粗末なものであった。これではいくら真珠をちりばめて高価に仕立てたとしても、興がそがれてしまうような代物であった。
 そこで思い当たるのが、この記事の題にもした故事である。これは下記のようなものである。

後漢の将軍馬援という人が自分の甥に送った手紙に自分の尊敬する杜季良という人の名前を上げ、「彼のまねをしてその通りならなかったら、ただ軽薄の人に終わるだろう。いわゆる虎を描きてならず、かえって犬に似てしまう類だ。心してほしい。」彼の甥は彼の忠告を良く守り、確かな人物としてその生を全うしたという。 

素質のない人が優れた人のまねをして軽薄に振舞うことの戒めである。馬援がいおうとした事と少し違うが、状況的にはまさにうってつけの局面である。

明けましておめでとうございます

今年は寅年ということで巷には虎の図柄があふれ、元気のない世相に活力を与えるものと大いに期待されている。年賀状でも虎、虎と大変である。阪神ファンは今年は己が年と大いにハッスルしている。中国では虎は、動物の中では別格的な扱いを受けている。諺にも虎は良く出てくるが、どれも、いい加減な扱いをされたものはない。だからというわけでもないだろうが、ごく最近中国で絶滅種であるベンガル虎を食べた人が死刑判決を受け、刑を執行されたということだ。

 中国の辞書を引いてみると、この「寅」から「虎」という語彙は一向に出てこないが、これは現代ではこの寅という漢字は生まれ年をいうときだけにしか使われないのかもしれない。

そこでこの言葉の語源を遡ってみることにした。
左に甲骨文字から金文から小篆(篆書)を経て楷書へと形が整えられていった「寅」を示す。


日中辞典を引くと「寅」は十二支の第3番目で時刻方位などに当てると書かれている。さらに「漢字源」の「解字」の記述欄をみると、
「会意。原字は《矢+両手》で矢をまっすぐのばすの意を表す。寅はそれにウカンムリを添えたもので、家の中で体を伸ばして、いずまいを正すこと。」としている。

 しかし甲骨文字と金文に見える上部の図形は家を表す「ウカンムリ」の図形とはまったく異なっており、これでもって家を表すとは少々難点がある。

中国の唐汉氏の説によると、寅という文字は甲骨文字と金文でそれぞれ二つの表現様式があり、
その第一のものは上部に突き出た矢のような記号は「子供が生まれるとき、臍の緒のつながる方向を示し、真ん中の四角の図形は母親の産門のうちと外を示すもので、下部の「文」のように見えるものは母親の産門を表しているとしている。
また第二の文字についていうと、一番上部の三角は胎盤を表し、真ん中の部分の両脇にあるのは手である。それは注して慎重に胎盤を引きおろしている状態を表現している。したがってこの字の原義は「导引(導引:導き引っ張る)」であると主張する。
 金文にも二つの形式があり、一つは胎盤の形状がまさにそのまま出ており、もう一つは甲骨文をそのまま受け継いでいる。
 このようにして十二支は子供の出産の過程を最初から文字に表現したものと主張する。

 私にはこの主張が「漢字源」のものより根拠あるように思うのだが・・。